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2006年06月15日

特集/竹入元委員長提訴と創価学会の歴史偽造

「創共協定」壊しをめぐる新手の歴史偽造
本誌編集部

竹入氏に「協定壊し」の責任を押しつける

竹入バッシングを利用する形で、創価学会による新手の歴史偽造が始まった。1974年12月の「創共協定」をめぐる事実の改竄である。「創価新報」5月17日付「青年部座談会」。「竹入(義勝・元公明党委員長)は共産党恐怖症だった」「『創共協定』にも嫉妬の難癖」の見出しで、こう述べている。

 「昭和49年12月のことだ。作家の松本清張氏の仲介で、池田名誉会長と共産党の宮本議長(当時)が会談した」
 「池田先生は『共産党との間に無用の摩擦を生じ、選挙のたびに学会員を過度の政争の手段にしてはならない』と判断され、率直に話し合われたんだ」
 「当時、心ある識者はみな、絶賛していた」
 「協定には『宗教と共産主義の共存』という文明史的な意義があった」
 「ところが竹入など、協定を結んだ意義も、時代の流れも、まったく理解できなかった。協定に難癖を付け『オレは今まで通り、共産党をブッ叩く』などと狂ったように言い放った」
 「嫉妬だよ、嫉妬。自分には、大きく構想を描き、実行する、先見もない。度量もない。だから池田先生の偉業に嫉妬していたんだよ、あいつは」
 「一方で共産党も、協定を政治的に利用して、歪めて、壊してしまった」
 「要するに、竹入が共産党を煽って火を付けた張本人だった。あまりにひどかったから、支持団体の学会が、火を消そうと懸命に努力してやった」

 ――「協定」は高度の文明論で、学会は誠実に守ろうとしたけれど、竹入氏と彼に煽られた共産党がブチ壊したという筋書である。
 正式には「日本共産党と創価学会との合意についての協定」という。略称「創共協定」。共産党側は「共創協定」と呼ぶ。74年12月28日に野崎勲・学会総務(当時)と上田耕一郎・共産党常任幹部会委員(同)が署名し、双方の正式な印鑑を押して締結し、翌年7月27日に発表された。政党が特定宗教団体と「協定」すること自体を、政教分離・信教の自由の観点から疑問視する意見もある。それはさておき、協定の内容はたしかに“立派“だ。協定は前文で双方の立場の違いを確認したうえで、「日本の将来のため、世界の平和のため」に7項目の合意事項をあげている。

 「創価学会は、科学的社会主義、共産主義を敵視する態度はとらない。日本共産党は、布教の自由をふくむ信教の自由を、いかなる体制のもとでも、無条件に擁護する」(第2項)、「双方は、たがいに信義を守り、今後、政治的態度の問題もふくめて、いっさい双方間の誹謗中傷をおこなわない。……すべての問題は、協議によって解決する」(第3項)、「民衆の福祉の向上を実現するために、たがいに努力しあう」(第4項)、「ファシズムの攻撃にたいしては、断固反対し、相互に守りあう」(第6項)……。

 協定発表翌日の「秋谷見解」で協定を骨抜きに

 「創価新報」の言い分が正しいかどうか、「協定」の準備から発表、またたく間の崩壊までの客観的な経過をたどってみる。

 ・74年10月30日、松本清張氏の立ち会いで第1回目の懇談。共産党からは上田氏と山下文男文化部長、創価学会からは野崎氏と志村栄一文芸部長。以降、松本宅で7回懇談。
 ・74年12月28日 「協定」に署名押印。
 ・74年12月29日 松本宅で池田、宮本懇談。
 ・75年7月12日 ホテル・ニューオータニで「池田・宮本人生対談」(毎日新聞が連載)。
 ・75年7月16日 聖教新聞に青木亨副会長(現理事長)が「池田・宮本対談について」を発表。「組織的共闘を意味するものではない」「今後とも公明党を支援」と表明。
 ・75年7月27日 双方が同時に「協定」と「経過について」を発表。
 ・75年7月28日 協定について「秋谷見解」発表。翌日付聖教新聞に掲載。

 秋谷栄之助副会長(現会長)はそのなかで、協定は「共闘なき共存」を定めたものだとして、協定にある「協議」や「協調」の精神を否定した。第6項の「ファシズムに反対し相互に守りあう」とは、「日本に安定した中道勢力を拡大すること」だと述べ、「公明党が共産党との間で、憲法三原理をめぐる憲法論争を続けていくこと」を、学会として「肯定している」と、同党の反共路線推進を認めた。さらに、「双方間の誹謗中傷はおこなわない」という第3項の意味は、「学会が公明党を支援するということに対して、『政教一致である』といった類の誹謗中傷は、いっさい行わないことです」とまで解説してみせた。
 協定発表の翌日、早々と協定の内容を都合よくすり替え、骨抜きにしたのである。発表直前の青木見解とあわせて、協定を壊しにかかったのはほかならぬ、現在の学会会長と理事長だったのだ。「創価新報」のいうように共産党が「政治的に利用」する時間すらなかったのである。約1ヵ月後の8月20日、池田大作氏は学会壮年部代表者集会で、秋谷見解を公式に追認した。

 75年12月の共産党中央委員会総会決議によると、共産党は協定調印1ヵ月後(75年1月)の中央委員会総会で協定の内容と経過を報告し、了承をとりつけた。その後、「公的組織としての社会的責任からも、合意協定を早く公表すべきことを、創価学会にたいしてくり返し強調した」けれど、学会の都合により7ヵ月も引き延ばされた。
 同党は秋谷見解後も、「すべての問題は、協議によって解決する」(第3項)との協定にもとづき会見を申し入れたが、学会の拒否にあったとしている。こうして創共協定は発表したままで、急速に“死文“への道を歩んだ。それが、ことの真相である。

 常態化する歴史の偽造

 創価学会による歴史偽造は、いまに始まったことではない。69年末から70年にかけての言論出版妨害の問題もそうである。このとき、池田大作氏は70年5月3日の本部総会で「お詫び講演」をした。言論出版妨害を事実として認め、「今後は、二度と、同じ轍を踏んではならぬと猛省したい」とまで述べた。政治・政党との関係については「政教分離でいけばよいと思う」と述べ、共産党への態度にも言及して「我々は、かたくなな反共主義を掲げるものではない」と述べた。
 つまり、言論出版妨害への社会的批判を受け入れて、全面謝罪したのである。にもかかわらず、創価学会はいま、あれは学会婦人部が侮辱されたからだとか、信教の自由を守る正義の戦いだったと描いている。

 実は、「お詫び講演」の前後、学会内部ではとんでもない事態が進行中だった。
 1通の内部文書がある。70年3月4日付の「総合本部長会報告」。学会副理事長らが地方幹部を相手におこなった指導メモである。こんな指導がされていた。

 「(言論問題の)本質は広布を阻む第六天の魔である」「公明党・創価学会の悪口を一口でもいったら追かえし、不法侵入として警察へ訴える位にする」
 「マルキョウ(丸の中に共の文字。以下同)は槍傷覚悟でやって来る。広布をハバむ魔である。重大な決意をしなければならない」「マルキョウに焦点を合すこと」「マルキョウをつぶす様祈っていこう」

 当然のことながら、マルキョウは共産党のことだ。表向きの「お詫び講演」の裏では、こんな態勢がとられていた。そして講演直後の70年5月から7月、その一部が実行されている。宮本宅電話盗聴である。これが創価学会の組織的犯罪であることは、東京高裁の確定判決(88年4月)で明らかになっている。
 そしていま、「反共主義をとらない」どころか、選挙では共産党などの候補者や運動員をとり囲んで妨害し聖教新聞などでは「日本中が大嫌悪」「デマ・不祥事で総すかん。“時代遅れ“のジリ貧党」と、「文明論」にはほど遠い悪罵をくり返しているのである。
 ところで、宮本宅電話盗聴の真相がわかったのは80年。山崎正友・学会元顧問弁護士の告白によってである。その間、創価学会はそんな事実をひた隠しにしたまま、共産党との間で「文明論」を語り、「協定」まで結んでいた。
 とはいえ、「協定」の文書は現に存在している。池田氏も直接かかわったこの文書にケチをつけることはできない。それを反故にするには、誰かを“犯人“に仕立て上げざるをえない。――「創価新報」の歴史偽造には、そんな背景事情が透けて見えるようだ。
 一方、共産党は盗聴の真相を知らなかったとはいえ、「反共主義はとらない」などという発言を本気で信じていたのだろうか。政党が特定宗教と「協定」することの検討を含め、全面的な総括はまだされていない。

投稿者 Forum21 : 2006年06月15日 13:45

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