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2009年12月04日

2009-12 特集/惨敗の中の二つの創立記念日――あがく創価・公明

今、池田大作に必要な「政治からの撤退」の決断

ジャーナリスト 古川利明

 例年と空気が違った創立記念の11月

 この11月というのは、池田大作にとっては、17日の公明党の結党記念日、さらには翌18日の創価学会の創立記念日と、大きな節目を迎える記念の日を相次いで迎えるため、本来であれば、そうした記念行事の開催と合わせて、組織が大きく盛り上がる。事実、聖教新聞をはじめとする学会系の媒体では、例によって、池田大作に対する表彰、名誉学位授与の類の顕彰記事を、連日のように垂れ流しつつ、それをテコに学会員らを、来るべき「来年夏の参院選」に向けて、発奮させようと必死であることが、見て取れる。ところが、この「8・30」における総選挙の惨敗を受け、今年は少し、空気が違う様子である。
 例えば、これらの「記念日」の直後の11月21日に、共同通信がネット上に配信した記事(加盟社各紙の掲載は、翌22日付朝刊)によれば、「公明、参院埼玉選挙区から撤退へ 比例重視に転換」との見出しで、来年夏の参院選において、公明党は、埼玉選挙区選出の現職・西田実仁を比例に鞍替えする方針を固めた、と報じている。
 ただ、これは「正式決定」ではなく、最終的には「12月開催の全国県代表協議会での決定を急ぐ」とあるため、まだ、流動的な要素も残されてはいるものの、つい最近、流れた前代表・太田昭宏の、同様の「来年夏の参院選での比例への転出情報」とも合わせて、公明党(=創価学会)の次の衆院選における「小選挙区からの撤退論」が、いよいよ現実味を帯びてきたのではないか、と勘ぐる向きも出てきているようだ。
 スジ論から言えば、本来は、こうした「衆院小選挙区からの撤退」などという小手先レベルの操作ではなく、民主主義の根底にある「政教分離の理念」ということを、もし、貫徹するというのであれば、「池田大作=創価学会」は、今、ただちに公明党を解党し、政治の場から全面撤退しなければならない。ただ、そこにいきなり話を持って行っても、現実問題から、余りにも乖離し過ぎているため、もう少し、実態に即して、池田大作(=公明党・創価学会)の置かれている状況を分析してみたい。

 「クリーン」が売り物だった草創期の公明党

 創価学会の政治進出は、第2代会長・戸田城聖の時代である。1955(昭和30)年4月の統一地方選に「文化部員」を候補者として立て、東京都議、横浜、川崎の両市議選などで、一挙、52人を当選させた。翌56(昭和31)年7月の参院選では、3人を当選させ、国政進出を果たし、これを足がかりに、創価学会が公明党を結成し、「衆院」へと駒を進めるのは、60(昭和35)年5月に、池田大作が第3代会長に就任して以降のことである。具体的には、候補者を擁立した「文化部」を「文化局」に格上げした後、その中に「政治部」を設置し、さらに、この政治部を外郭団体である「公明政治連盟(公政連)」へと衣替えする手続きを取り、満を持す形で、64(昭和39)年11月17日、この公政連を母体に、池田大作を「創立者」とする「公明党」の結党大会を開いたのである。
 公政連時代を含めて、草創期の公明党は「政治の浄化」ということを最大の旗印に掲げていた。おそらく、最近の若者たちが聞いても、ピンと来ないだろうが、その「公明正大」からくる党のネーミングと合わせて、「クリーンな政党」といえば、「公明党」と言われた時代があったのである。
 筆者が創価学会三部作(『システムとしての創価学会=公明党』『シンジケートとしての創価学会=公明党』『カルトとしての創価学会=池田大作』、いずれも第三書館)を著すにあたって、既に亡くなられた元公明党東京都議の龍年光氏を取材したことがある。龍氏は、63(昭和38)年の都議選で「伏魔殿・都庁の浄化刷新」を掲げて、当時の公政連から当選した「17人のサムライ」のうちの、ひとりだった。
 その龍氏らが当選後、いち早く取り上げたのが、隅田川へのし尿不法投棄問題だった。これは、下水道が整備されていなかった当時、本来であれば、し尿は「団平船」と呼ばれていた専用の運搬船で、東京湾へ投棄しなければならなかったのだが、その費用を懐に入れるため、いわば、清掃業界が「組織ぐるみ」で行っていたものだった。龍氏らは、不法投棄の現場で張り込み、都議会において、その「動かぬ証拠」を突きつけ、厳しく追及した。すると、当時の「清掃業界の天皇」と呼ばれる人物が、龍氏らに面会を求め、「どうか勘弁して欲しい」と泣きを入れてきた、というのである。で、こうした不法投棄は、都庁の担当部局も黙認のうえ、「なあなあ」でやってきたとのことだったが、じつは、この「手打ちの会談」を裏でセットしたのが、そのとき初当選を果たしていた、あの「藤井富雄」だったのである。
 龍氏は筆者の取材に、次のように語っていた。
 「藤井富雄は、その業界の天皇とも親しく、向こうとしても『藤井なら取り込める』と思ったのだろう。自民党も手を出さない、汚いけれどもカネになるところを、藤井はがっちりと握ったというわけだ。振り返って、戸田先生が、政治の場に進出しようとしたのは、仏教の教えに則り、ひとえに『政治の浄化』が目的だった。議員と役人、そして財界が結託した利権構造が、目の前にあり、それを我々の手で打ち砕こう、と。ところが、それを、あの池田大作の野郎は、踏みにじりやがったんだ」
 そして、公明党が衆院初進出後の67(昭和42)年、真っ先に国会で取り上げたのが、あの共産党ですら、手を出さなかった自民党の「国会対策費」だった。矢野絢也、黒柳明、二宮文造といった「爆弾質問男」が、容赦なく追及し、とりわけ、党ナンバー2の書記長として質問に立った矢野氏は、何と、その質問内容が議事録から削除された末、あやうく懲罰動議をかけられそうになった。しかし、世間は、なりふり構わず、政権与党の「膿」を抉り出そうとする公明党の姿勢に、ヤンヤの拍手喝采を送ったのである。

 「自公体制の10年」で衆院初進出時以下の議席に

 「異才は、野に置け」という物言いがある。筆者が新聞記者を経て、この仕事に入って、20年以上が経つが、それを振り返ってみても、野党時代の公明党というのは、まだ、異彩を放っていたように思う。あのロッキード事件のときでも、独自に党で調査団を派遣し、自らの足で稼いできたネタをもとに、国会で追及し、自民党の「金権腐敗」について、厳しく正してきた。しかし、この「自公連立」によって、「政権与党の旨い汁」にタカってきたことによって、そのわずかに残されていたクリーンな部分も消滅し、さらに腐敗の度を深めてしまったのではないだろうか。
 「政教分離」は、民主主義を確立させるうえで、最も重要な要件の一つとされる。それは、おそらく、宗教が持つ「狂気的なエネルギー」を、現実世界で暴走するのを抑止する「最後の砦」としての、人間が長い歴史を通じて生み出してきた知恵のようにも思える。
 今度の総選挙で公明党が獲得した議席数は「21」である。これは、小選挙区制の導入に伴い定数が削減されたため、単純比較はできないものの、衆院初進出の際の「25」を下回る、結党以来、最低の数字である。
 池田大作は、公明党の結党以来、口癖のように「天下を取る」と公言してきたが、その結実が、この「自公体制の10年」だったように思える。しかし、戸田時代の、創価学会の政治進出の原点にあった「政治の浄化」ということを考えるとき、その「一線」とは、せいぜいが「地方議会」、百歩譲って「参院」までだろう。今、池田大作に対して、「政治の場から全面的に引いて、この際、宗教指導者として宗教活動に専念し、自らの手で『本尊』を書くべきではないか」と言いたいところだが、さまざまなしがらみ、メンツ、さらには本人自身の深い「業」ゆえ、おそらく、それは無理というものだろう。本誌をはじめとして、ジャーナリズムは、「池田大作は政治の場から手を引くべきである」とのスジ論を主張しなければならないのは勿論だが、しかし、それだけでは彼らは動かない。それゆえ、今後とも信濃町に対する厳しい監視と適切な批判を継続することが、どうしても必要である。(文中・一部敬称略)

古川利明(ふるかわ・としあき)1965年生まれ。毎日新聞、東京新聞(中日新聞東京本社)記者を経て、フリージャーナリスト。著書に『システムとしての創価学会=公明党』『シンジケートとしての創価学会=公明党』『カルトとしての創価学会=池田大作』『デジタル・ヘル サイバー化監視社会の闇』『日本の裏金(上、下)』(いずれも第三書館刊)など。

投稿者 Forum21 : 2009年12月04日 00:32

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