« 2月15日号 目次 | メイン | 2008-3-1 信濃町探偵団―創価学会最新動向 »

2008年03月01日

2008-3-1 特集/1.26「SGIの日」記念提言を斬る

理解不能だった池田SGI会長提言「平和の天地 人間の凱歌」

段 勲 ジャーナリスト

ノリとハサミで切り貼り、格調だけ高い提言

 毎年、1月26日は「SGI(創価学会インタナショナル)の日」。33回を迎えた今年、「聖教新聞」(1月26日、27日の両日付)に発表された池田大作・SGI会長の恒例になっている記念提言は、「平和の天地 人間の凱歌」である。
 紙面の掲載は、上下2回にわけられた6ページにも及ぶボリュームで、よほど覚悟しないと、全部読み切るのもしんどい。とくに、もっとも読んでほしい身内学会員の皆様の中で、果たしてどれだけの人が通読したのだろうか。
 世界諸国の著名人が残す名言をこれでもかと引用されているが、不勉強にして初めて知るような人名も少なくない。並みの大学教授が束になっても敵わない池田氏の途方もない博識ぶりにまず圧倒されてしまう。もとより筆者などは、読む資格さえもないようだ。正直、読んでも理解不能な箇所がいくつもあった。
 創価学会は“民衆の宗教”だという。池田氏も、学会はいつも民衆の味方ともいう。要するに学力や、貧富による差がない信仰組織ということである。
 それなら例年、記念提言でいつも思うのは、ベストセラー『国家の品格』(賛否があるにしても)のように、学会員を含むごく普通の民衆が、「なるほど」と納得するような言葉で話してほしいと望むのが第1点。
 2点目は、6ページに及ぶ記念提言を読んでいても、民衆の王者・池田氏本人の肉声が聞こえてこないし、見えないことである。どなたかが、世界中の都合のいい論文や話をかき集め、ノリとハサミで切り貼りしたような提言という印象が強い。
 3点目は、他人の人権と名誉を傷つける薄汚い「中傷ビラ」を全国に配布した学会幹部らが「不法行為責任」(東京高裁=08年2月13日)を認定されるような組織と、他方、その頂点に立つ指導者・池田氏の格調高い「記念提言」とは、どうしてもかみ合わないことだ。

 紙上の空論、有言不実行

 以下、いち民衆の立場から、池田氏の「記念提言」を見てみよう。
 池田氏はまず「宗教のヒューマナイゼーション」についてこう語る。
 「何よりもその宗教が、人間を『強く』し、『善く』し『賢く』するよう促し、後押しするものでなければならない。それは『宗教のヒューマナイゼーション』」
 であるとし、
 「21世紀文明と宗教のあり方を考える際、宗教は人間性の向上、平和と幸福のためにあるという視点を忘れてはならないと、強く訴えるものであります」
 と言う。
 アフガニスタン、イラク、イスラエル、インド、ほか、諸国の局地武力闘争にしても、対立抗争の要は宗教である。宗教家として池田氏は、具体的にどのような努力をしたのか。学会本部から一歩出ただけで、警備陣に二重、三重にも守られたなかでの提言は、紙上の空論にすぎない。
 宗教は人間性の向上、平和と幸福のためというなら、毎年、毎年、会員から「財務」など集めないで、せめてその金で「一家団欒・家族旅行でも」と、提言したらいいと思う。
 「財務」を集める目的として、“広宣流布には金がかかる”と発言した学会の幹部がいた。それなら貧民国の広宣流布は永遠に不可能であり、学会の教義に違背することにはならないか。
 次に池田・SGI提言は、
 「分断の世界を一つに結ぶ対話の万波を民衆の手で!」
 と、「対話」の重要性を訴えている。こうだ。
 「対話が途絶するということは、人間が人間であることをやめるに等しい。いうなれば、対話なき人間は人間失格であり、対話なき社会は墓場といっても過言ではありません」
 さらに、ソクラテスやドイツの碩学カール・フォン・ヴァイツゼッカー氏等の言葉を引用し、
 「自己抑制と理性に裏打ちされた対話こそ、まさに生命線であり、対話に背を向けることは、宗教の自殺行為といってよい。したがって、仏法を基調とする人間主義を推し進めるにあたって、いかに狂信や独善、不信といった問答無用(原理主義)の壁が立ちはだかろうと、この、対話こそ人間主義の“黄金律”であるという旗だけは、断じて降ろしてはならないと訴えておきたいと思います。……それには、人間の『強さ』『善良さ』『賢明さ』などの美質が、総動員されなければならない。そして、真の宗教は、それら美質を顕現させゆく駆動力でなくてはならない……」
 確かに、今、世界各地で起きている宗教紛争で、犠牲になっている民衆の姿は悲惨である。お互いに銃口を向ける前に、テーブルにつき、対話で解決する方法はないものかと誰しもがそう思っているのだ。
 しかし、こと池田氏の口から「宗教と対話の大切さ」を訴えられると、つい腰が引けてしまうのである。
 宗教が紛争の要因になっている諸国の局地紛争など解決難問に比較して、はるかに軽い宗教トラブルにしても、池田氏は「対話」から逃げに逃げてしまった歴史が残されているからである。

 対話に背を向ける池田氏の体質

 1970年代初頭、教義をめぐって日蓮正宗の講の一つであった「顕正会」(現・富士大石寺顕正会)と壮絶な論争を起こしたことがあった。
 暴力沙汰にまで進展し、顕正会の浅井昭衛会長が池田氏に討論を申し入れた。だが、池田氏はただの1度もテーブルにはついていない。配下を名代として送り込み、本人は対話を拒否したのである。
 1970年、創価学会が「言論出版妨害事件」を起こしたときもそうであった。同年5月、池田氏は、妨害で迷惑をかけた故・藤原弘達氏等に、「機会があればお会いしてお詫びしたい」と約束した。だが、この対話も38年を経過していまだ実現していない。
 1991年、学会は、それまで60年間の蜜月関係にあった「日蓮正宗」と、日本の宗教史に残るような凄まじい抗争を起した。お互いに文書の応酬合戦。さらに全国随所の末寺では住職と学会員が対立し、パトカーが急行するようなトラブルが頻繁に起こったのである。
 親族や家族間では親戚同士、夫婦、親と子どもが学会と宗門に分かれていがみ合う。最悪、一家離散するというケースも例外ではなかった。幸せを求めて入った宗教なのに、その宗教によって不幸を招くという本末転倒の現象が起きたのである。
 この社会まで騒がせた宗教内紛でも、池田氏はただの一度も相手側と「対話」をしていない。別に、国際紛争のように、マシンガンを脇に抱えて対峙するわけではなく、お互いに茶をすすりながらの話し合いである。それでも池田氏は、対話に背を向けた。文字通り、SGI提言にある、
 「対話なき人間は人間失格であり……対話に背を向けることは、宗教の自殺行為」
 になった。

 対話求めた青年に周章狼狽

 最近、発売された『池田大作の品格』(小多仁伯著・日新報道刊)を読んでいたら、こんな一文があった。
 東京・信濃町の学会本部前で、来客を伴って現れた池田氏に、学会青年のN君が、
 「センセー、Nです! お話があります」
 と言いながら近づいた。すると池田氏は、
 「おう! 君か!」
 と言って後ずさりし、突然、脱兎のごとく逃げ出したという。大事な来客をすっぽかし、本部に隣接する文化会館の玄関に飛び込んでいったというのだ。
 その光景を近場で見ていた著者の小多仁氏は、池田氏を、
 「大指導者を装う威厳など全くなく、むしろ滑稽な喜劇役者のように映りました」
 と、書いている。
 N君が凶器でも持って近づいたら、逃げるのも自然だが、学会員の一人でもあるN君は、事前に、池田氏と創価学園の校友会でも会っていたという。なぜ、立ったままでもいいから、5分の「対話」もできなかったのか。池田氏は、一切“敵”とは「対話」が出来ない性格のようである。実際、池田氏の多くの対談集を拝見しても、激論を飛ばしているような「対話」はない。これって……。
 提言で池田氏は、核兵器の非合法化や、クラスター爆弾の使用禁止も訴えている。むろん、池田氏の提言を待たないまでも、核兵器などの廃絶は、世界中の人々が賛成である。核兵器やクラスターと聞けば、すぐ思い浮かべるのが軍事大国の米国である。
 1961〜71年、ベトナム戦争時代に米国はベトナム、さらに北ベトナム軍が補給ルートとして使用したラオス、カンボジアにも、7235万リットルのダイオキシンを含む枯葉剤を散布した。
 昨年春、筆者もこの地帯を訪ねたが、この枯葉剤の影響でいま、目、腕がない子ども、体全体がひび割れしているよう悲惨な子どもたちがこの地域で続々と生まれている。
 戦争とはいえ、他国にこんな残酷な薬剤を平気で撒く国の大統領から池田氏に、この1月、誕生日のお祝いとして、電報が届けられた。よほどうれしかったのか、その電報は「聖教新聞」の1面を飾っている。「平和の天地、人間の凱歌」を提言する人間と同一人物とはとても思えない。

段 勲(だん・いさお)フリージャーナリスト。1947年生まれ。週刊誌記者を経て、創価学会・公明党など宗教問題をはじめ社会・世相、医学・健康等をレポート。『私はこうしてがんを克服した』(日本能率協会)『鍵師の仕事』(小学館)『宗教か詐欺か』『創価学会インタナショナルの実像』(共にリム出版)『定ときみ江 「差別の病」を生きる』(九天社)など著書多数。

投稿者 Forum21 : 2008年03月01日 05:07

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.forum21.jp/f21/mt-tb.cgi/140

inserted by FC2 system