« 信濃町探偵団―創価学会最新動向(2006/8/15) | メイン | 信濃町探偵団――創価学会最新動向(2006/9/1) »

2006年09月01日

特集/小泉靖国参拝と創価学会・公明党

「政教分離」に違反する「小泉靖国参拝」と「公明党=創価学会・池田大作」

ジャーナリスト 古川利明

 小泉靖国参拝に二つの問題点

 終戦からまる61年を迎えたこの8月15日、中国や韓国といったアジア諸国からはもちろん、同じ自民党内からも強い反対の声が上がっていたにもかかわらず、首相の小泉純一郎が靖国神社の参拝を強行した。
 こうした小泉の強行参拝によって引き起こされた世論のヒートアップが、その日の夕方の、右翼による山形県鶴岡市の加藤紘一宅放火事件を引き起こすなど、日本の内外で大きな影響を巻き起こしてしまったのは、既にマスメディアで報じられた通りだが、この小泉の靖国参拝には、大まかに言って、次の二つの問題点がある。
 一つは「歴史認識」の問題である。
 もちろん、先の太平洋戦争をどう評価するかについては異論があるだろうが、少なくとも日本軍の侵略によって筆舌に尽くしがたい被害を被ったアジア諸国の人々にとってみれば、そうした戦争を遂行したとして東京裁判で「A級戦犯」とされた軍人らが、「神」として合祀されている神社に、一国の総理大臣が、それも、戦争が終結した日に参拝するというのは、彼らの「被害者感情」を逆撫でにする以外の何物でもない。「結局、日本人というのは、先の戦争の過ちを何ら反省していないのではないか」と受け止められても仕方がないだろう。こうした悪感情が、アジア外交に及ぼす影響が甚大であるのは、言うまでもない。
 そして、もう一つは「政教分離」の問題である。
 これは、第一点の「歴史認識」とも微妙にリンクしてはいるものの、どうしても議論自体が地味であるので、前者と比べると、どちらかというと等閑視されがちだが、じつを言うと、民主主義の根幹を考える上では、後者の方も非常に重要である。
 この小泉の靖国参拝がなぜ、憲法に定めた「政教分離」に違反するかについては、全国各地で起こされている違憲訴訟のうち、去年の9月の大阪高裁判決が、極めて明快な判断を示している。
 判決では、小泉が公用車を使用し、秘書官を伴って靖国神社を訪れ、「公約の実行」としてなされたうえ、「私的参拝」であるとは明言せず、公的立場を否定しなかったことから、「内閣総理大臣の職務と認めるのが相当」と判断。そのうえで、「参拝による効果」が、「特定の宗教に対する助長、促進になると認められ、国が靖国神社を特別に支援しているという印象を与える」として、日本国憲法第20条3項にある「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」の部分に違反し、小泉の靖国参拝が「宗教的活動にあたる」と結論づけたのである(ただし、原告側の「信教の自由」の権利などは侵害されてはいないとして、控訴自体は棄却)。
 で、今度の参拝で小泉は公用車を使用し、首相名で記帳し、昇殿もしている。これは「政教分離違反」以外の何物でもない。

 政治権力の側から宗教法人を悪用

 「政教分離」を定めた憲法第20条は、全部で三つの項目から成り立っており、いずれも政治権力と特定の宗教団体との癒着を具体的に禁止している。
 うち、第20条1項の前段では、まず、「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」と、信教の自由そのものを保障したうえで、続く1項の後段において「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」と、特定の宗教団体による政治権力への介入を禁止している。
 小泉の靖国参拝は、前述したように第20条3項にある、政治権力側からの宗教団体への介入を禁止した条文に明確に違反したものだが、憲法はこのように、政治権力がその支配手段として宗教を利用するのを禁じると同時に、この第20条1項後段において、宗教団体(宗教法人)が優遇税制など、そのさまざまな特権を利用(悪用)することで、政治権力に介入してくることを禁止しているのである。つまり、政治権力、宗教団体双方からの介入をいずれも固く禁じたものだが、それが「政教分離」であり、そうしたことがきちんとなされて初めて、個人の「信教の自由」を守っていくことができるのである。
 今度の一連の小泉靖国参拝報道の中で、1978年秋にA級戦犯が合祀された際に、軍人恩給を扱う旧厚生省援護局の影響がかなりあったことが明るみになったが、それが事実とすれば、むしろ、政治権力の側が、一宗教法人である靖国神社の存在を利用(悪用)しようとしている、ということになるだろう。

 公明党に小泉靖国参拝を批判する資格はない

 さて、こうした「政教分離違反」においては、小泉の靖国参拝よりも“一日の長”がある、「公明党=創価学会・池田大作」である。
 小泉が靖国参拝を強行した8月15日、公明党代表の神崎武法は記者団に対し、こう小泉の靖国参拝を強く批判していた。
 「自粛すべきと申し上げてきた。象徴的な日だけに誠に遺憾」
 申し訳ないが、神崎及び公明党に、小泉を批判する資格は一切ない(もちろん、「創価学会=池田大作」も、であるが)。
 まず、神崎にしても、公明党の他の国会議員にしても、小泉の靖国参拝を批判したいのであれば、「創価学会=池田大作」の支持(=指示)を一切受けることなく、自前で後援会を立ち上げ、文字通り、自分の力だけで票を掘り起こして当選してくることである。そうした上で批判しないことには、何の「説得力」もない。
 宗教団体である創価学会と、その組織の実質的な最高指導者である池田大作が、ある特定の教義のもとに宗教活動を行うこと自体は、憲法のもろもろの規定に照らし合わせみて、何ら問題はない。
 問題はそこから先で、ある宗教団体が事実上、一つの政党を丸抱えで持ち、さらにその政党が国会の第一党と連立を組み、「政権与党」として政治に参画していることなのである。
 それはまさに、日本国憲法第20条1項の後段にある「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」のくだりに、ダイレクトに違反しているのである。その意味では、「公明党=創価学会・池田大作」が政権与党に入り込んだ、「99年体制」以降は、日本の政治状況そのものが、「違憲状態」にあるといっても過言ではない。
 公明党とは、「創価学会=池田大作」抜きに存在しえない政党である。その意味では、公明党にとって、「創価学会=池田大作」とは、その“生命維持装置”と呼んでいいだろう。それゆえ、生命維持装置が取り外されれば、その瞬間に機能は停止し、ただちに「死」に至ってしまう。

 「政教一致」によって政治と宗教の堕落が始まる

 なぜ、憲法では「国(=政治権力)」と「宗教団体」との分離を規定しているのだろうか。
 いずれの宗教も、信仰の中に、必ず「死者の霊」を弔うことを含んでいるが、何人であれ、その「死」を弔うというのは、その人が生きてきた「生」をも尊重することである。そこから、生命を慈しみ、人間をリスペクトしていこうという気持ちも生まれてくる。
 しかし、そうした純粋な個々人の思いを利用(悪用)しようとするところから、政治の、そして、宗教の堕落が始まる。
 小泉の靖国参拝に関しては、少なくとも一国の「内閣総理大臣在職中」は控えるべきだったし、仮に参拝するにしても、そういった物議を醸す「8月15日」は避け、公用車を使うこともなく(本来であれば、徒歩か地下鉄、タクシーを利用し、さらにはSPの警護も解いた上で、一人で靖国神社まで足を運ぶべきだが、それが物理的に無理であれば、断念するしかないだろう)、ましてや、「内閣総理大臣」名の記帳など論外である。なぜなら、「私人」に「公職の肩書き」は不用だからである。
 一方、「創価学会=池田大作」に関しては、少なくとも、公明党の「国政選挙」からは撤退しなければならない。憲法の「政教分離規定」に違反しない一線は、せいぜいが「地方議会」までである。
 いずれにしても、来年の参院選を機に「政権交代」ということが、政治の最大テーマとして浮上してくるだろう。その意味でも、我々有権者はこうした「政教分離」の問題について深く考えていかなければならないし、ジャーナリズムの側もさらにもっとその問題提起を行わなければならない。(文中敬称略)

古川利明(ふるかわ・としあき)1965年生まれ。毎日新聞、東京新聞(中日新聞東京本社)記者を経て、フリージャーナリスト。著書に『システムとしての創価学会=公明党』『シンジケートとしての創価学会=公明党』『カルトとしての創価学会=池田大作』『デジタル・ヘル サイバー化監視社会の闇』(いずれも第三書館刊)など。

投稿者 Forum21 : 2006年09月01日 18:54

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.forum21.jp/f21/mt-tb.cgi/50

inserted by FC2 system