特集/池田大作氏「称号・賞獲り」のカラクリ(2002/8/1号)

"勲章の権化"と化した池田センセイ /段 勲(ジャーナリスト)

 昨年の春先、まったく無名の宗教家が他界した。葬儀を終え、しばらく月日を経て、遺族や信徒たちが書斎に入り、遺品の整理を行った。膨大な蔵書や机の中をかたづけているうち、これまで見たことのない賞状やら記念品が続々と出てきたのである。
 生前、社会福祉に打ち込んでいたくだんの宗教家が、多くの公的機関や諸団体から贈られていた賞状などだった。所属の信徒はもとより、遺族さえも知らな かった受賞の数々。本人が話題にすることもなかったし、受賞の晴れがましい式典にも、出席を拒んでいたほどであったという。
 信徒の供養で禄を食む宗教家は、生活を質素にする一方、弱者を救うことなど当然という哲理を持っていた師である。宗教家として、社会福祉などごく当たり前の振る舞いなのに、賞状など贈られること自体がおこがましいと思っていたようだ。
 宗教家が、世間に褒められたり、まして賞など贈られることを、むしろ恥とさえ感じていたのである。だが、同じ宗教家でも、池田大作・創価学会名誉会長のような、勲章の権化と化した奇特な人物もまたいるのである。

 「世紀の大思想家に並ぶ」の記事は  後世の語り草に  

創価学会の機関紙、聖教新聞の一面記事が、「池田名誉会長の受賞紹介」で埋められるようになって久しい。勲 章、名誉教授号、名誉市民証、名誉会員の授与……。聖教新聞が_勲章新聞_と見間違うほどの変わりようだが、その極致に達した記事が、去る六月二十八日付 の同紙である。おそらく、後世の語り草になるとも思われる記念すべきその記事を紹介してみよう。
 二面、三面をぶち抜いた大見出しは、「池田SGI会長の功績は世紀の大思想家に並ぶ!!」と、感嘆詞が二つも付いた大仰さ。上段に、池田氏が受賞してい る四枚のスナップ写真が紹介されており、その下段、横一列に、世界の思想家一二人の顔写真が並んでいる。いずれも、中学、高校の社会科教科書に登場するよ うな世界史に燦然と輝いている著名人たちだ。以下、順次紹介してみよう。

 H14年6月 聖教新聞より

レオナルド・ダ・ヴィンチ (池田氏は)「万能の天才を彷彿させる」ロシア・レオナルド・クラブ レオナルド国際賞
ナポレオン (池田氏は)「英雄の精神遺産を宣揚」ナポレオン歴史協会 名誉会員
ヴィクトル・ユゴー (池田氏は)「ユゴーの如き信念と実践」フランス・ロシェ社 平和・人道賞
ソロー (池田氏は)「人間革命はソローと共鳴」アメリカ・ソロー協会 終身名誉会員
トルストイ (池田氏は)「共に英知と真実の求道者」国際児童基金協会 トルストイ国際金メダル
デューイ (池田氏は)「偉大なる教育者の後継」デューイ研究センター 人間教育貢献賞
ホセ・リサール (池田氏は)「独立の父の人類愛を持つ」フィリピン・リサール協会 リサール大十字勲章
タゴール (池田氏は)「詩聖と同じ文化の心が」インド・アジア協会 タゴール平和賞
マハトマ・ガンジー (池田氏は)「マハトマと共通の平和行動」インド マハトマ・ガンジー民衆福祉財団 ガンジー平和賞
アインシュタイン (池田氏は)「アインシュタイン博士が主張した建設的行動の人」世界平和国際教育者協会 アインシュタイン平和賞  
魯迅 (池田氏は)「魯迅、孫文、周総理と一致」中国・北京魯迅博物館 名誉顧問
キング (池田氏は)「キング博士の非暴力を体現」アメリカ・モアハウス大学 最高学識者称号

 ここに並んだ12の賞。ノーベル賞のように、世界的に知られた賞ではない。むしろ、初めて見聞する賞の方が多いが、世界の偉人たちと肩を並べる池田氏の"功績"に与えられた賞だという。
 賞の重みはさておき、池田氏の功績は、このような世界史に残る偉人たちと同格なのかどうか。意見が大きく分かれるところだが、身内の機関紙とはいえ、こ こまで報じるとあっぱれというしかない。あと残されている世界の偉人は釈迦とキリストと、日蓮聖人ぐらいのもの。早晩、この偉人たちとも池田氏は、おそら く、同列に並べられるであろう。
 世界の人口、五十数億人のなかで、聖教新聞で報じる池田氏ほどの偉人は見あたらない。皆無といっていい。それなのに、ノーベル平和賞の声はなかなかかからないし、肝心な日本国が、これまで池田氏に贈った賞は一枚もないのである。

急げ、小泉総理!  「勲章の王様」から 「裸の王様」へ  

ただ、強いていえば、随分とむかしになるが、富士宮市から名誉市民号が贈られている。加えて近年、市町村など全国の地方自治体から立て続けに、平和貢献賞類の賞が贈られた。国より先に、市長や町長が池田氏の功績を認め始めたかと思われたのである。
 だが、その地方自治体にしても心もとない。聖教新聞が一面で、連日のように報じていた地方自治体からの授与ニュースが、ぴたりとストップしてしまったのだ。流行病でもないのに、どうしてこうなってしまうのか。
 理由の一つは、自治体の長が、一宗教団体教祖の「功績」を認める形で、税金で賞を授与する姿勢はいかがなものか。こうした意見が一部の議会で問題提起さ れ、一部のマスコミも追従した。以来、池田氏に対する地方自治体の賞贈りが、突然、途絶えてしまったのである。
 自治体がやはりまずいと判断して自粛したのか。それとも、賞贈りを自治体に働きかけてきた池田・親衛隊が自粛したものか。察するところ後者と思われる が、それにしても近年、池田氏の勲章受章の多さが際だっている。一般紙から、かつて"勲章の王様"とまで報じられたほどだ。
 こうした批判に池田氏は時折、二つの論法を用いて反論している。ひとつには、「学会の皆様を代表して受けている」「皆様も喜ぶから」と、いう。そんな気 持ちもあるだろうが、本意ではない。例えば、九六年末、東京牧口記念講堂で開催された本部幹部会で、先ほども登場したフランスの文豪、ヴィクトル・ユゴー を引き合いに出し、本人自らがこう発言しているのだ。
 「辻(創価大学名誉教授)先生は、小説『人間革命』に対しても、ユゴーの思想と顕示性を求めずにはいられないと語り、さらに池田先生は生き方そのものが ヴィクトル・ユゴーを彷彿させるものであると、こう言っておられるんです。このへんでひとつ拍手でもしてくださいよ(場内拍手)」  たとえ、"辻先生"が本当に池田氏をそう評価したとしても、「世紀の大思想家」や真の宗教家なら、自ら口に出し、拍手を強要するようなみっともないまね はしない。むしろ、遠大な世界平和の実現を目標にする大宗教家が、大学教授あたりに、過去の一思想家に生き方が似ていると褒められたら、むしろ恥と思わな ければならない。その程度で喜び、拍手など求めていたら、それこそ苦難辛苦が伴う世界平和の実現などとても無理であろう。
 もう一つは、池田氏がよく口にするのは「日本の民族は嫉妬心が強い」という言葉だ。日本人が他民族に比較して、果たして、嫉妬心が強い民族かどうかは分 からない。が、この言葉の裏には、「世間やマスコミは批判ばっかりして、どうして俺を偉い人だと認めないのか」という、いらだちが隠されている。
 池田氏の目に余るこうした尊大さを助長させている背景には、常に取り巻いている側近にも要因がある。二人の元学会最高幹部が話していたこんなエピソードを紹介してみよう。
 「私が池田氏に呼ばれて話し合う機会が出来たとき、いつも苦労することがあった。それは会ったとき、どうやって池田氏を褒めたら喜び、機嫌がよくなる か。そればっかりを考えていた。たとえば、どこそこの大学教授に先生の著書を読ませたら、ものすごく感動しておりました。少し大げさに作って伝えるこの種 の話が一番よかった」
 要するに、側近のゴマすりである。もう一人の元最高幹部はこうだ。氏が青年部の男子部長時代、
 「みんなは気づいていないが、池田先生は、中国の毛沢東を100人束ねたよりもまだ偉い人だ」
 学会青年部を集めた会合で、こんな池田氏宣揚の指導をいつもしていた。名前を明かしてもいいだろが、福島源次郎元副会長(故人)である。ちなみに氏は晩 年、毛沢東を100人束ねた池田氏にあっさりと背を向け、『蘇生への選択』という意見書まで書き、池田氏の行動を痛烈に批判した。こうなると青年部時代、 福島氏は、池田氏を心の底から尊敬していたのかどうかも怪しくなる。
 ともあれ、昭和三十五年の会長就任以来四〇年間、こうした側近だけに囲まれてきた池田氏は、故・内藤国夫氏がよく言っていたように、いつの間にか"裸の王様"になっていたのである。
 勲章や名誉欲など、宗教家の対極にあることにもマヒし、むしろ側近者たちもそう煽ってきた。とりわけ、平成三年、宗門との離反以降、信仰の根本である 「本尊」の在りようがぎくしゃくしたことで、組織の求心力が失われた。肝心の本尊に替わる組織の求心力として、池田氏の存在の重さをより高める必要があっ たのである。その飾り付けとして勲章や名誉が欠かせないものになってきたのだ。しかし、急ぐあまり、無理も起こる。
 脱会した海外幹部による、
 「学会本部の命令で、大学から池田先生に名誉教授号が贈られるよう、努力せよと言われたことがある」
 との証言が残されているし、また、インドのガンジー財団関係の賞贈与にしても、きな臭い話が取りざたされており、その政府記録書も手元にある。
 また、隣国、韓国の各都市から池田氏は最近、とみに名誉市民号などが贈られ始めている。海を渡ってこれらに付随する様々な情報も寄せられており、早晩、続報としてまとめてレポートしたい。

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