特集/七・三大阪事件(池田大作選挙違反事件)の罪と罰
「末端会員切り捨て」で買い取った「池田無罪」 /溝口 敦(ジャーナリスト)

 創価学会では初代会長・牧口常三郎、第二代会長・戸田城聖がともに戦前、治安維持法違反と神社に対する不敬罪で逮捕、投獄された歴史を持つ。中でも牧口 はついに釈放されることなく、敗戦の前年、刑務所内で死亡した。いわゆる獄死であり、これにより戦前、創価学会は侵略戦争に反対して、壮絶な弾圧を招いた という「学会伝説」のもとをつくった(実際には侵略戦争や天皇制に反対したからではなく、それらをいっそう強化するため、その誤りをいましめる「国家諫 暁」という立場を固執したため、当時の政府から弾圧を加えられた)。

 ブタ箱勾留を神聖な「法難」と祭り上げる

 他方、学会内で「大阪事件」と呼ばれる事件は、池田大作が公選法違反で逮捕され、大阪東署と大阪拘置所に十五日間勾留された一件を差す。いわゆるブタ箱入りであり、酔っ払って乗車拒否のタクシーを蹴っ飛ばすぐらいでも、間と運が悪ければ、あり得る事件である。
 勾留は刑ではない。警察署内の留置場(ブタ箱)と、れっきとした刑務所とは大いにちがう。勾留とは本来、刑が確定する前の被疑者・被告人の逃亡・証拠隠滅を防ぐために行われる「未決拘禁」であって、刑罰としての意味はまるでない。
 だが、池田はこの大阪事件に連累したことで、初代、第二代と続いた名誉ある「投獄・法難」を第三代会長である自分もまた受けたとして、池田自身の神聖化に活用し、自己顕彰の根拠にしている。
 その実態はどうだったのか、以下、検証してみよう。

 昭和三十二年(一九五七年)四月、参議院大阪地方区の補欠選挙が行われ、創価学会は船場支部長・中尾辰義 を立候補させた。当時の学会本部の理事長・小泉隆と学会の渉外部長・池田大作らがこの選挙運動を指揮した。結果は落選だったが、大阪府警は六月二十九日に 小泉を、七月四日には池田を「堂々と戸別訪問せよ。責任は私が負う」と会員に要請した疑いで逮捕し、七月二十九日、それぞれ起訴した。

 当時の新聞は次のように伝えている。

 「創価学会幹部四十五人起訴 ・大阪発・大阪地検は、去る四月行われた参議院大阪地方区補欠選挙での創価学会幹部らの公選法違反事件について、二十九日、同学会本部理事長、東京都議小 泉隆(四八)・東京都大田区蒲田五ノ一一・ら四十五人を買収で(うち二人は略式起訴)、同渉外部長池田大作(二九)・同区調布小林町三八八・ら三人を戸別 訪問で、それぞれ起訴した。起訴状によると、この選挙で、小泉理事長は主として"実弾作戦"を、池田渉外部長は戸別訪問をそれぞれ担当、現地で指揮に当た り、大阪、船場、松島、梅田、堺の五支部に『選挙係』を設け、府下六万信者のほとんどを戸別訪問に動員したもの。  投票数日前には"タバコ戦術"として職安十数カ所で、日雇労務者に候補者名を書いたピースなど約四千個をバラまいたという」(『朝日新聞』昭和三十二年 七月二十九日夕刊)

 池田は大阪東署と大阪拘置所に十五日間勾留され、検事の言うがまま調書に署名し、七月十七日(小泉は十五日)保釈で出された。
 この間、創価学会は一連の事件を「大阪事件」と呼び、同会を「おとしいれようとして仕組まれた策謀」だとして、小泉、池田以外の、選挙運動に動員、起訴 された創価学会員四十一人を十二日、戸田の命令で除名し、小泉、池田の即時釈放を要求する大会を十二日東京で、十七日大阪で開いた。  大阪大会には保釈で出された直後の池田も出席し、
 「大悪起れば、大善来たるとの、大聖人様の御金言の如く、私もさらに、より以上の祈りきった信心で皆様とともに広宣流布に邁進すると決心する次第であります」(『聖教新聞』昭和三十二年七月二十一日)と挨拶した。
 大阪事件では、翌三十三年小泉が無罪となり、四年後の三十七年一月に池田が禁固十月の求刑を受けたものの、検察側は公判で戸別訪問の指示を立証できず、 無罪を判決されて解決した。池田が小泉に比べ長期の公判に耐えなければならなかったのは、勾留段階で池田が検事の調べに怯え、検事に迎合するような供述を 行って署名したため、調書をひっくり返すに多くの困難があったからとも伝えられる。
 『聖教新聞』三十七年一月二十七日号は、公判の結果を報じて、
 「『大阪事件』に勝利の判決 無実の罪晴れる 裁かれた権力の横暴」と大きく見出しにうたったが、「勝利」は小泉や池田に限ったことで、他の会員にとっ てはそうでなかった。このとき、同時に池田以外の二十人の創価学会員に対しては戸別訪問で罰金一万円から三千円、うち十人に公民権停止三年、七人に同二年 の判決が言い渡されている。
 見出しは彼らの存在を無視したものだった。戸田や池田は末端の会員を切り捨てることで池田の無罪を買い取ったともいえよう。創価学会には戸田時代から末端会員に対する非情さがある。
 が、どう強弁しようと、大阪事件の実態は、たかだか参院選の指揮に際し、池田が戸別訪問を指示、警察の把握するところとなり、ブタ箱に十五日間放り込ま れた話以上のものではない。獄につながれた、投獄された、というのは有罪判決に基づく服役を意味し、勾留とは法的にまるで別物である。

 弾圧・投獄を怖れていた小市民・池田

 だが、池田は意図的にブタ箱と刑務所を混同し、池田自身が第三代会長に就いたことの根拠の一つに、この大阪事件を使っている。彼にとってはブタ箱入りが聖なる「法難」であり、女性スキャンダルで法廷に立った経験はあるものの、ブタ箱以上の経験はない。
 が、とはいえ、ブタ箱・法難説は後知恵で、当初、池田は当局の弾圧や投獄を怖がる小市民でしかなかった。投獄が名誉のしるしなど、本来の池田にとっては、とてもとてもの発想だったのだ。
 池田は昭和二十二年八月の入信だが、戸田は学会を戦後再発足させた後、早い時期に宗教学者の調査を受け入れ、池田にもインタビューに答えさせている(小口偉一『宗教と信仰の心理学』に所収)。
 それによれば、入信一年後、池田の心理は次のようなものだったと、池田自身が語っている。
 「それから一年は普通にやっていました。そのころはバチがこわかったのです。前の信者さんたちが牢獄へいったということが気になりました。全部の宗教に 反対するから必然的に弾圧される。そのときはどうしようか、寝ても覚めても考え、やめるなら今のうちがよいと考えました」
 ここでは池田も創価学会が侵略戦争に反対したから政府の弾圧を招いたとは強弁していない。単にすべての宗教に反対したから(当時の創価教育学会は皇大神 宮の神札を祀って拝むことを拒否した。末法の世、伊勢神宮には魔物しか住まない。神札の受け入れは謗法の行為に当たるというのが牧口の考え)と語ってい る。
 しかも理由はどうあれ、戦前、当局の弾圧を招いたこと自体が恐ろしく、やめるなら今のうちがよいと、意気地なくホンネを洩らしている。指導性はもちろん、見識、勇気、思想性といったものに、一切無縁な存在が池田だった。
 だが、池田は後に同じことを次のように言い換え、創価学会と池田自身の修飾につとめる。
 「戦後戸田会長に会ったときも、この人は戦争に反対して二年間も、牢に入っていた、この人のいうことならば、わたしは信じてついていってもまちがいはないと、と思ったのです」(『文芸春秋』昭和四十三年二月号)
 ご都合主義の極みだが、しまいには創価学会 ナ聖性を証明するとされる『法難』を一手に我がものにしたいとさえ、池田は願うようになる。災難を受けることが正しさの証明であるかぎり、災難を受ける資 格は池田だけが持つことであって、他の幹部が災難を受けることは許し難いといった逆転した感覚である。

 創価学会の本部職員が次のエピソードを紹介する。
 「昭和四十六年九月、当時の竹入義勝公明党委員長が党本部前で暴漢に刺され、重傷を負う事件がありました。本来なら『名誉ある法難』とされるところ、新 聞(特に政治面)が大々的に報じたものだから、池田さんは『竹入のやつ、たいしたケガでもないのに大げさに入院しやがって』と、ご機嫌斜め、しばらくは竹 入夫人が挨拶に行ってもそっぽを向いていたそうです」
 外部社会にはきわめて分かりにくい。災難を受けることは創価学会にあって、ある面、その人間の正しさの証明である。竹入義勝が暴漢に襲われたのは竹入の 正しさの証明であり、さらにいえば竹入の大物性、指導性の証明になる。池田は竹入が誰がみても不当・不法というしかない形で暴漢に襲われ、ゆえなく負傷 し、同情的に大きく報道されることにかぎりない嫉妬を覚えた。池田は移動する際、十重二十重にボディガードに身辺を囲ませ、暴漢に襲われたくとも襲われる 隙がない。

 日蓮は鎌倉幕府に、正法をもって国政の元とすべきことを説いて、幕府や他の宗派からの弾圧・迫害を招い た。伊豆流罪、小松原法難、龍ノ口法難、佐渡流罪などがそれだが、「いま日蓮」の名を願う池田は法難によりわが身の正しさと正統性を証明したい。だが素材 に窮して、まことに卑小な「大阪事件ブタ箱入り」の活用に行き着いたというべきかもしれない。その心根は哀れである。 (文中敬称略)

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