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2008年09月09日

2008-9 特集/皇太子と「創価学会の御曹司」同席写真の意味

皇室・王室利用をくり返してきた創価学会――難局に皇太子を利用か

乙骨正生
ジャーナリスト

 わざわざブラジルへ出向いた“お世継ぎ”

 去る7月1日付「聖教新聞」1面に、皇太子殿下が創価学会の後継者と目される池田博正SGI副会長と同席する写真が掲載されていた。
 問題の記事は、「ブラジル パラナ州で日本人移住100年祭」「SGIメンバーらの熱演 3万人の市民・来賓が喝采」と題するもので、「ブラジルへの日本人移住100周年を慶祝するパラナ州の記念式典が6月22日(現地時間)、同州ローランジャ市の『日本移民センター』に隣接する広場で盛大に開催された。ここでは、ブラジルSGIの青年部約500人が演奏と演技を披露した。式典には、皇太子さま、ジョゼ・アレンカール副大統領、パラナ州のロベルト・ヘキオン州知事、アントニオ・ウエノ元連邦下院議員らと、式典委員会の招聘を受けた池田SGI会長の名代として池田博正SGI副会長が出席した」とあり、皇太子とブラジル副大統領、パラナ州知事、島内駐ブラジル日本大使、ウエノ元連邦下院議員とともに池田博正氏が並んだ写真が大きく紙面を飾った。
 この事実を報じた「週刊朝日」8月1日号は、記事に「皇太子さまと同席した創価学会の“お世継ぎさま”」との見出しを付けたが、まさに天皇家のお世継ぎと、創価学会における天皇ともいうべき絶対者・池田大作氏の後継者と見られている「創価学会の“お世継ぎさま”」がブラジルの地で邂逅したということだろう。
 「聖教新聞」記事によれば、池田博正氏が日本人移住100周年の記念式典に出席した理由は、式典委員会の招聘を受けた父である池田大作氏の名代として出席するためだという。また式典にブラジルSGIのメンバーが多数出演しているとあるから、現地メンバーを激励する意味合いもあったのだろう。
 それにしてもいくら式典委員会から招聘があり、ブラジルのメンバーが多数出演するからといって、池田博正氏がわざわざブラジルまで出向く必要があるとも思えない。実際、ブラジル以外の国でSGIのメンバーが政府主催の行事に出演するケースは少なくない。だが、そうした行事に池田博正氏が出向いているわけではなく、現地の幹部が出席している。そうした事実に鑑みるならば、今回の記念式典にもブラジルSGIのトップが出席すれば済む話である。にもかかわらず池田博正氏が遠路はるばる出向いたのは、皇太子と同席の栄に浴せるからとしか考えられない。

 危機に瀕しての聖教報道

 周知のように創価学会はいま、矢野絢也元公明党委員長の提訴に端を発した国会召致問題で揺れに揺れており、6月22日の式典の模様を報じた「聖教新聞」が発行された7月1日といえば、野党4党の有志が主催した「矢野絢也さんより話を聞く会」(6月13日)や日本外国特派員協会での矢野氏の講演(6月25日)を受けて、矢野氏のインタビューや手記、関連記事などを掲載した「文藝春秋」「諸君」「WILL」「週刊新潮」などの月刊誌・週刊誌が相次いで発刊された時期にあたっている。
 矢野氏の提訴・告発がマスコミ媒体によって広く報じられることにより、社会的関心が高まることは創価学会にとってマイナスであり、学会員に創価学会に対する不信や動揺を招来することに繋がる。それだけに「聖教新聞」がこのタイミングで、皇太子と池田博正氏の同席写真を掲載したのは、池田博正氏を皇太子と並ぶ“立場”にあると喧伝することで、学会員の動揺を防ごうとした狙いがあると見ることができる。要するに皇太子との同席を、危機に瀕する創価学会ならびに池田大作ファミリーの防波堤として利用したのだろう。
 というのも一般にはあまり知られていないが、創価学会はこれまでにもさんざん皇室や海外の王室を利用してきた経緯があるからだ。
 古くは昭和20年代に創価学会は、秩父宮勢津子妃の母親である松平信子さんが、平成3年に創価学会を破門した日蓮正宗の信徒だった縁で、貞明皇太后や昭和天皇・今上天皇に日蓮正宗の本尊や経本が上程されていた事実を、「聖教新聞」で大々的に報道。日蓮正宗の驥尾に付す形で、あたかも自らの信仰が皇室にも波及しているかのような報道を行っている。その狙いが暴力宗教と批判され、また貧乏人と病人の集まりと揶揄されていた自らのステータスを粉飾・糊塗することにあったことは明らかだ。

 タイ国王に写真展開催を切望

 池田大作氏が会長に就任してから以後の創価学会は、皇室や海外の王室には無関心の呈を装っていたが、昭和63年2月にタイ・バンコクのチトラダ宮殿にプーミポン・アドゥンヤデート国王を表敬訪問してから後は、皇室や海外の王室の利用を活発化させた。
 その手法は、海外の王室の権威を利用して皇室を担ぎ出し、結果的に池田大作氏ならびに創価学会の宣揚・宣伝、自己正当化につなげるというものである。具体的に見てみよう。
 前述のように池田氏は昭和63年2月にタイを訪問。プーミポン国王と会見した。その際、池田氏はプーミポン国王に対して、次のようにいくつかの要望を行っている。
 「日本の富士のふもとに、人類の幸福を願う“平和の大殿堂”がある。これは私の信仰する総本山であり、訪日の際は、ぜひおいでいただきたい」(昭和63年2月4日付「聖教新聞」)
 「その近くの富士を臨むよき地に、陛下を祝福申し上げる意義から記念の桜を植樹させていただきたい」(同)
 「同じ趣味(写真のこと)を持つ者として、ご提案申し上げる。ぜひとも、陛下の作品を、パリでも、ニューヨークでも、また日本の美術館でも、展示し、紹介したい。二、三点のみの出展でもお願いできればと思う」(同)
 これに対してプーミポン国王は、「よく分かりました」「光栄に思う」などと応じたとあり、写真展の開催については、「異論はない。よく打ち合わせて欲しい」と発言したと「聖教新聞」は報じている。
 池田氏と創価学会は、平成3年から4年にかけて日蓮正宗から破門処分・信徒除名処分を受けるが、当時はまだ日蓮正宗に所属していたことから、国王に日蓮正宗の総本山である大石寺への参詣を要請したのだが、実はこの時期に池田氏ならびに創価学会は、かつて池田氏が昭和65年(平成2年)を「広宣流布の大総仕上げ」の年と位置づけたことから、池田氏に、日蓮聖人の遺命である「広宣流布」の「達成者」という宗教的権威を付与することに腐心しており、プーミポン国王への大石寺参拝の要望はその工作の一環、布石に他ならなかった。
 というのも日蓮正宗では、「広宣流布」という宗教的理念が達成された時には、大石寺にある「不開(あかず)の門(勅使門)」を開くという伝承があり、池田氏は昭和40年に自らが「最高権力者」としてこの「不開の門」を開くことを次のように宣言していた。
 「広宣流布の時には、不開の門が開きます。(中略)それが創価学会の究極の目的の一つです。そのときには不開の門が開く。一説には天皇という意味もありますが、再往は時の最高権力者とされています。すなわち公明党がどんなに発展しようが、創価学会がどんなに発展しようが、時の法華講の総講頭であり創価学会の会長がその先頭になることだけは仏法の方程式として言っておきます。後々のために言っておかないと、狂いを生ずるからいうのです。私は謙虚な人間です。礼儀正しい人間です。同志を、先輩をたてきっていける人間です。そのため、かえってわからなくなってしまうことを心配するのです」(昭和40年7月26日付「聖教新聞」)
 それだけにプーミポン国王の大石寺参詣を契機に、この「不開の門」を開かせ、自らを「広宣流布」という日蓮聖人の遺命を実現した宗教的偉人に祭りあげようと図っていたと見られるのである。
 だがプーミポン国王の大石寺参詣は実現しなかった。しかし池田氏が要望した写真展は実現し、平成元年4月に東京都八王子市にある創価学会傘下の東京富士美術館で「微笑の国・タイ王国――プーミポン・アドゥンヤデート国王陛下御撮影特別写真展」として開催された。4月5日に行われたオープニングセレモニーには、タイからチュラポーン第三王女が来日し出席したため、外交儀礼上、皇室からも常陸宮夫妻が列席した。皇族が創価学会施設を訪れたのはこれが初めてである。
 この事実は、仮にプーミポン国王が大石寺に参詣し、そこで歓迎セレモニーでもあれば、皇室からも相応の皇族が列席する可能性があったことを示唆する。池田氏は国王と皇族の列席を「不開の門」を開ける根拠にし、自らの宗教的権威の獲得を図ろうとしていたのではないか。
 だがこうした傍若無人ともいうべき目論見は裏目に出て、池田氏と創価学会は日蓮正宗から破門される結果となるのだが、平成元年当時は、プーミポン国王写真展での皇族の担ぎ出しに成功したことに味を占めたからか、同年5月からの訪欧では従来と異なり積極的に王室関係者への接近を図った。
 まず5月25日にはイギリスでアン王女を表敬訪問。「王女の訪日を心から楽しみにし、お待ちしております」(平成元年6月1日付「聖教新聞」)と発言したのをはじめ、6月5日には、スゥェーデンでカール16世・グスタフ国王を表敬訪問。平成2年3月にグスタフ国王が来日することに関連して、「来日を心から歓迎いたします。両国の相互理解と友情は、きわめて重要」(6月7日付「聖教新聞」)などと発言するとともに、プーミポン国王写真展に言及しつつ、グスタフ国王写真展の開催を提案した。池田氏の思惑とは異なり、グスタフ国王写真展は実現しなかったが、あわよくばという思いだったのだろう。

 皇族・王族を従えるという図式

 池田氏が「広宣流布の大総仕上げの年」と位置づけていた平成2年の4月には、「黄金郷(エル・ドラード)伝説の秘法――コロンビア大黄金展」を東京富士美術館で開催。このオープニングセレモニーには、コロンビアのカロリーナ・デ・バルコ大統領夫人が出席したことから、皇室からは三笠宮夫妻が出席した。「聖教新聞」をはじめとする創価学会の機関紙誌には、バルコ大統領夫人・三笠宮夫妻を左右にしてテープカットに臨む池田氏の得意げな写真が大々的に掲載された。
 チュラポーン王女と常陸宮夫妻を案内する池田氏の写真や、バルコ大統領夫人と三笠宮夫妻と並んでテープカットする池田氏の写真を、一般的感覚で見れば、東京富士美術館の創立者である池田氏が、王女や皇族を先導して案内する図式と理解するが、池田氏を絶対の存在とする創価学会にあっては、「池田先生が王女や皇族・大統領夫人を従えている」と理解することになる。少なくとも「池田先生は皇族や王族と肩を並べる存在」と理解することは明らかだ。要するに池田氏の権威・カリスマを強化することに繋がる。換言するならば、池田氏の権威・カリスマを強化するために王族・皇族を利用していると見ることが可能だ。
 まして池田氏が、「昭和65年(平成2年)」を「広宣流布の大総仕上げ」の時と豪語していた事実に鑑みるならば、海外の王族・皇族を池田氏の野望達成のための手段として利用したと指摘することもできる。
 こうした前例に基づくならば、今回の皇太子と池田博正氏の同席写真の掲載にも、ポスト池田大作を睨んでの後継者・池田博正の権威・カリスマの強化と、当面の難局である矢野問題から学会員の目を逸らすとの二つの意味合いがあったと考えることができる。折に触れて皇室や王室を利用してきた創価学会。その狡猾な手法を厳しく監視するためにも、矢野氏と池田氏を国会に召致し、実態の解明を図る必要がある。

乙骨正生(おっこつ・まさお)フリージャーナリスト。1955年生まれ。創価中学・創価大学法学部卒。宗教・政治・社会分野などを取材、週刊誌・月刊誌を中心に執筆。著書に『怪死』(教育資料出版会)『公明党=創価学会の野望』『公明党=創価学会の真実』(かもがわ出版)など。

投稿者 Forum21 : 2008年09月09日 10:19

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