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特集/歪んだメディア戦略―武富士・創価学会の共通点

迷走する創価学会の広報戦略

2005-5-1

山田直樹 ジャーナリスト

 創価学会の広報能力は?

 広報とは企業、行政機関等の顔である。担当者はもちろん自らの組織内部に精通しておらねばならず、対外的関係においてポジティブであれネガティブであっても、つまり攻めでも守りでも、対処できる力量が問われる。
 とりわけ組織(員)が不祥事を起こした場合、広報はその真骨頂を発揮できなければならない。傷口を最小限に留め、それをプラスにする方法論を確立出来るか否かで、広報能力が決まるといっても過言ではない。
 それではわが創価学会の広報能力がどの程度のものなのか。そもそも彼らに本来の意味での「広報」は存在しているのだろうか。長く創価学会で広報活動を担当した小川頼宣氏に改めて伺った。
 「創価学会広報の技術論は、どんどん稚拙になっています。もはやそれは『ワンウェイ』のコミュニケーションでしかない。言い換えればコンピュータ言語のようなもので、彼らには学会に対するイエスかノーしか判断基準がないのです。これは権力者の言語感覚であって、批判者の発言の場を狭くする方向性しか持ちえない硬直化に陥っています」
 小川氏は、「学会広報のやり方は、記者クラブに出てくる官僚と一緒」と付け加えたが、同感である。とりわけ近年、創価学会と池田大作名誉会長の露出比率で見ると、後者ばかりが前面に居座り、「池田商店」の宣伝媒体に学会系メディアは堕しているかのようだ。大手企業の広報担当者に、その点を解説していただいた。
 「ホリエモンでもカルロス・ゴーンでも、あるいは孫正義でも『企業の顔』であることに変わりがない。各人の評価は分かれて当然だけど、彼らがそれなりの評価を受けるのは、提供するサービス、商品に顧客が満足するペースがあるからです。つまり、企業の社会的評価を消費者から与えられることで、トップのアイデンティティが成立する。その逆ではないのです。ゴーン社長がどれほど人格的に立派であっても、売れない、魅力のない車を作り続け、赤字を垂れ流しているようでは、当然ながら経営者としての評価は最低になる。
 創価学会の広報を見ていると、これとまるっきり逆なんです。池田氏は世界中からたくさんの勲章、博士号を授与され、しかも各国の知性と“堂々と、対等に”平和や文化を語り合うほどの偉人である。こんな大偉人に率いられた組織(創価学会)は、だから凄い、立派なんであると。では私たち消費者、あるいは国民といってもいいですが、個別の創価学会員を評価しているんでしょうか。彼らが提供する何らかの社会的サービス――カウンセリングやボランティアなど何でもよい――に恩恵を受けたことはあるのでしょうか。あるのは、公明党への投票依頼だけではないですか。それも人の都合を考えない、迷惑でしつこいやり方でなのです。そういうギャップが現実にあるのに、創価学会の広報戦略はまったく変わらない。変わらないのなら、それは組織的欠陥があるとも捉えられますが、実は創価学会員以外の人など、選挙時を除けばどうでもいい。むしろ各メディアに池田氏が登場したり、その名前が読み上げられることで会員を満足させる。莫大なお金を使ってやっているのは、会員向けサービスだといえるんじゃないでしょうか」
 たしかにそれで個別の学会員から「我々の浄財を、こんな無駄遣いにするな」と批判の声があがったという話は聞いたことがない。

 権力・金力でメディアを黙らせる

 一方で、小川氏が指摘したように学会の広報戦略は批判的メディアをどう効率よく抑制できるかにも、力点が置かれている。その点は、本号別稿の武富士事件対談ともリンクするのだが、創価学会がこれと異なるのは公明党という一心同体の組織が政権与党の立場にあることだ。
 創価学会はかねがね、「権力のチェック」を主張してきた。公明党が与党入りしてはや5年。同党=創価学会は「チェック」される権力の側にある。だから彼らは逆に、「権力でチェック」する側に立場を移行させたとしか思えない。それは、機関紙・聖教新聞の座談会を見れば明らかだ。
 ここで言われているのは「学会は正しい。逆らった者には必ず不幸が訪れ、凋落し破滅する」とする連日のトートロジーだ。前出の小川氏はこれを、「言葉の密輸入」と見る。即ちそこにある言説は、税関を通さない(チェックされない)粗削りな、社会性を欠いたものばかりで、一般国民がそれを咀嚼するのは不可能との意味で「密輸品」に相当するというのである。
 そもそも日蓮仏法の基本は折伏であり、破折だろう。座談会の会話は、それに値するものだろうか。ここで語られるのは、相手の存在意義を認め、その上で誤りを指摘することではなく、単なる「排除の論理」である。
 これは創価学会広報の活動にも言える「論理」だ。どのような記事が出るのか、出ない(出させない)ためにどうするか――。そのための情報収集、人間関係づくりが担当者の最も大切な仕事となる。もちろん、その前段部分により重要な責務がある。
 何よりもメディアを黙らせるには、広告の出稿が一番である。新聞には賃刷りで、報道にワクをはめる。広告主や顧客として縛りをかけておいて、それでも口を開こうというメディアには訴訟という恫喝が待っている。
 「お手柔らかにお願いしますよ」
 広報担当者はそう言って、各出版社を訪れる。
 「これは抗議でなく、説明です」
 と、慇懃に触れ回る。しかしその言葉の下には、訴訟という鎧がいつも見え隠れしているのだ。そしてその訴訟のための方策もぬかり無い。公明党の国会議員は「名誉毀損の賠償額が日本は低すぎる」と主張して、同意する法相の答弁を引き出す。個人情報保護法を押し通し、仏法だけでなく「国法」でメディアを抑圧する。

 折伏とは無縁の不思議な存在

 以上のような組織の行動原理は、およそ通常の民間企業にはあり得ない。武富士、コクドのようなワンマン会社でさえ、最後はディスクローズの波には耐えられなかった。上場企業は、株主の厳しい目が絶えず注がれている。従業員からの「内部告発」もある。巨大組織NHKも、その一撃の前に視聴者という顧客を大量喪失中だ。
 創価学会は宗教法人であり、しかも政党を持つ「利点」を、最大に活かしている。民間企業が夢見ても持ちえない、「排他的独占」を享受しているかのようだ。
 「弱腰の広報など必要ない。前へ出ろ。今年は広宣流布仕上げの創立75周年だ――そんな檄が飛ばされていると私は見ます」
 小川氏は、そう語る。不思議なことに創価学会には、折伏とは無縁な組織員が多数存在している。例えば自らの存在を決してオモテに出さず、職場・地域での折伏活動に参加しない「耳」だけを求められる「草」のような者たちもいる。ひたすら勉強に明け暮れるエリートコースに所属する者もいる。広報担当者もまた、その道のオーソリティでなく「組織センター」から派遣された人材が業務の主幹的立場に就く。これまでの人事を見れば、それは自明である。広報=外務省に、組織センター=陸軍の武官が配置され、采配を振るっているようなものだ。
 折伏が基本の組織であるのに、その成果で信賞必罰があるはずなのに、公明党票を稼いできた会員が抜擢されたり、あるいは折伏すらせずに出世する会員がいる――我々は、このようなダブルスタンダードを持った組織がいかに歪むか知っている。
 そうした歪みが、広報戦略に影響を与えぬはずはない。結局は池田氏の宣揚と脱会者・批判者への誹謗・中傷しか戦略(とは言えないシロモノだが)がない。極めて単純、疎漏、単線的な広報しか出来ないのである。
 前出の大手企業広報担当の声を思い出してほしい。もし企業なら、創価学会のような広報戦略、宣伝に大金は絶対に投じない。企業のトップをどれほど宣揚し、その批判者に誹謗・中傷を加えても、商品は売れない。むしろそれで深刻な消費者・顧客離れが起こり、経営路線を巡って内部対立が始まり、株主からは代表訴訟が起こされるに違いない。そのような社会的存在と無縁な位置にあるから、創価学会の広報活動はレベルが低いままなのだ。
 そしてもうひとつ。今や創価学会は公明党を持ったことで、我が世の春を謳歌しているようだが、この党の失策、失敗は即、創価学会に向けられることを知っているのだろうか。彼らがどのように政教分離していると主張しても、有権者はそのいかがわしさを熟知している。公明党が与党から転落すれば、彼らが作り上げた「権力=国法」は、当然、彼ら自身に向かうだろう。

山田直樹(やまだ・なおき)フリージャーナリスト。1957年生まれ。文庫本編集者、週刊文春記者を経てフリーに。週刊新潮に連載した「新『創価学会』を斬る」が「編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞」の大賞を受賞。著書に『創価学会とは何か』(新潮社)。

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