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2004年1月15日号

特集/検証―新事実が明らかになった「東村山事件」
東村山市議「怪死」事件とその背景

ジャーナリスト 段 勲

 筆者の机の中に、色あせた1台の携帯電話が保管されている。電源は8年少々前から切れたままで、もはや何の利用価値もない。が、捨てるには忍びない思いが刻まれている……。
 「朝木さんが死んだ!」
 95年9月2日早朝、ジャーナリストの乙骨正生氏が自宅に、一報を入れてくれた。
 東京・東村山市の朝木明代市議(当時=50)とは、その何日か前にお会いしたばかりである。瞬間的に、ブルーのスーツがよく似合う朝木市議の清楚な顔立ちが浮かんだ。
 「死んだって、なぜ!」
 「東村山駅前のビルから転落したようです。今、東村山警察署にいますが、他殺なのか、自殺なのか、あるいは事故なのか、まだ分からない」
 電話でこう伝えてくれた乙骨氏の声が上ずっていた。筆者にとっても極めてショックだったのは、実は当日の夕方、朝木さんたちとお会いする約束をしていたからである。
 四国・高知市の市民団体「ヤイロ鳥」主催の「宗教法人法と政治を考える」というシンポジウムに、パネラーとして朝木、矢野穂積両東村山市議、それに乙骨氏と筆者が招かれていたのだ。

 創価学会による人権侵害問題に取り組んでいた

 四国の市民団体が主催する「宗教法人法と政治」を考えるシンポジウムに、なぜ、東京の朝木市議たちが招かれていたのか。当時の国政状況と無関係ではない。
 38年に及ぶ自民党の単独政権が崩壊し、93年8月、細川連立政権が誕生した。しかし、佐川急便スキャンダルで細川は失脚し、継承した羽田政権もわずか2カ月の短命で終わる。
 こうしためまぐるしい政変のドサクサの中で、公明党・創価学会は悲願の政権参加を果たし、続々と大臣を送り込んだ。学会のはしゃぎぶりは大変なもので、例えば、同会の名誉会長で、最高指導者でもある池田大作氏自らが、こんな発言記録を残している。
 「皆さん方も頑張ってくれた。すごい時代に入りましたね。そのうちデェジンも何人か出るでしょう。ね、ね、もうじきです。ま、明日あたり出るから。あの、みんな、あの、皆さん方の(大臣は)部下だから、そのつもりで、明日の新聞楽しみに……」(93年8月8日「本部幹部会」=長野研修道場)
 細川内閣の閣僚名簿の発表前日、一宗教団体の長が「明日当たり出るから」といって予告した公明党の閣僚人事は、翌日、すべて的中していた。
 この発言は、国民のひんしゅくを買うのと同時に、政権から崩れ落ちていく自民党を強く刺激する。同発言は国会でも取り上げられ、やがて公明党と創価学会の政教分離問題について、自民党を中心にした国民世論が巻き起こっていく。
 宗教法人は収支決算書、財産目録等を明らかにせよといった「宗教法人法の改正」(96年9月施行)論議が国会で浮上したのも、政権のふところに介入した創価学会・公明党の出鼻をくじく、自民党の「策」と無関係ではない。
 当時、「四月会」、「憲法20条を考える会」の結成など自民党の執拗な攻撃に、学会・公明党の足場が揺れ動いた。その一方、東村山市という東京都下の一市議の立場ながら、「草の根市民クラブ」所属の朝木市議らも学会・公明党の諸問題点を市議会の席上等でガンガン追及していたのである。
 福祉活動に汗を流していたボランティア重視の専業主婦が、82年の東村山市議選に初めて出馬。以来連続3期12年の朝木市議が、なぜ学会・公明党問題に深く関与することになったのか。
 詳しくは乙骨氏の著書『怪死―東村山女性市議転落死事件』(教育史料出版会)に譲るが、その関わり方も半端ではなかった。
 この当時、学会は宗門から破門され、双方間で激しい火花を散らす抗争が展開されていた。朝木市議も、この渦に飛び込むことになる。きっかけは同市議たち「草の根市民クラブ」が発行する月1回のミニコミ紙「東村山市民新聞」(発行部数4万部強)であった。
 購読者から、「学会を脱会する際の嫌がらせ」の相談を受けたことを紙面化。さらに朝木氏は、
 「学会員や公明党議員の中には、平気で人権侵害する人がいます。応援しますので頑張って!」
 と、呼びかけたのである。
 呼びかけたばかりではない。脱会を希望する学会員たちの“代理人”を買って出て、脱会する学会員による「脱会届」と一緒に、創価学会会長・秋谷栄之助氏宛に次のような要望書も送付している。
 「今般、一身上の都合で創価学会を脱会いたします。以後、接触を希望する場合は,代理人朝木明代に連絡願います。
 創価学会会長 秋谷栄之助殿…………」
 巨大な宗教組織に対して、真っ向から立ち向かおうとする朝木市議の行動が、やがて東村山市の枠を越え、全国にその名を浸透させた。高知の一市民団体が講演者として、朝木市議に白羽の矢を立てたのもそうした背景からである。

 疑問だらけの「万引き事件」

 そんな朝木市議に、突如として予想外のスキャンダルが炸裂した。命を落とすほぼ3カ月余前に起きた「万引き事件」がそうである。
 まだマスコミも情報をつかんでいない時点(95年7月11日)で、以下のような匿名ファックスが東村山市の各マスコミに流れたことで事件は表面化する。
 「東村山市議会議員の朝木明代氏が、市内の女性服販売店で万引きをしたとの事実を確認いたしました。去る6月、東村山市の東口近くのブティク『スティル東村山店』で、店頭ワゴンに並べられていた商品(女性服)を朝木氏が万引きをして逃げようとするところを店員に捕まり、その場で商品を取り上げられたとのこと。事後に、店からは警察に被害届が出されています……」
 朝木氏が万引きをしたという肝心の商品は、1900円のTシャツである。この情報を筆者も得たとき、「東村山市民新聞」に報じられていたある記事が思い出された。
 朝木市議は、東村山市議会が、自らの議員報酬引き上げをしたという「お手盛り引き上げ」を徹底批判。以後、同市議は8年にわたって給与の引き上げ分やボーナスの割増し分を返上。95年5月まで、返上総額は806万5420円にのぼっていた。万引きしたとされる1900円のTシャツ、4523枚分である。
 実直で、不正を蛇蠍のごとく嫌っていた朝木市議が、たかだか1900円のTシャツ1枚に手を出すか? 本人を知る筆者の素朴な疑問であった。だが、この万引き事件を地元警察署は、朝木市議が5階建てビルの屋上から身を投げる「自殺」の動機とほぼ断定したのだ。
 「あの朝木市議が」
 という万引き事件は、各週刊誌も報じ、やがて全国的な話題になった。さらに、同事件が明らかになった直後(7月16日)、朝木市議と共に「草の根市民クラブ」を構成していた矢野市議も、何者かによって不可解な暴行を受けている。
 その暴行ぶりも尋常ではない。未明、事務所から自転車で帰宅しようとした矢野市議に、何者かがいきなり襲いかかってきた。自転車を奪って路上にたたきつけ、ヘッドロックしながら顔面や頭を投打。矢野市議は自転車で数百メートルほど逃走したが、再び同一犯人に追いつかれた。
大声を出して助けを求め、近くの公園にいた若者グループが駆けつけてくるまで、前歯を折るほどまた激しく殴られ、蹴られていたのだ。
 頭部、顔面挫傷で、全治2周間のケガ。当然、警察に被害届を出しているが、いまだ犯人は不明のままである。このほか、朝木、矢野両市議の周辺では怪文書が撒かれ、脅迫文が届き、朝木氏が愛用している自転車のブレーキが切断されるなど異常な事件が相次いだのもこの時期である。
 こんなさなか、筆者は東京・池袋の喫茶店で朝木、矢野両市議に会った。当事者に先の万引き事件を問うためである。朝木市議の人権を無視するような失礼なことも聞いたが、ご本人は万引きを一貫して否定していた。
 取材をお願いしたのは当方である。別れ際、コーヒー代を支払おうとすると「割り勘」で、と言う。これが朝木市議に会う最後になった。
 話を冒頭の携帯電話に戻す。朝木氏が命を落した東村山の現場周辺に何度か足を運んだ。警察が発表する「自殺」について、素直に受け入れることが出来なかったからである。
 残暑が続くなか、知人の取材記者たちも、汗だくになって現場周辺を歩き回っていた。その一人から、
 「現場近くの原っぱに、こんな物が落ちていた」
 と、提供してくれたのが先の携帯電話である。
 朝木市議の死と、何か関係はないか。専門家に依頼し、通話記録を調べてもらったが、電話回路の機能はすでに消え失せていた。あれから9年。土が付いたままの携帯電話を、まだ捨て切れないでいる。

段 勲(だん・いさお)フリージャーナリスト。1947年生まれ。週刊誌記者を経て、創価学会・公明党など宗教問題をはじめ社会・世相、医学・健康等をレポート。近著の『私はこうしてがんを克服した』(日本能率協会)『鍵師の仕事』(小学館)『宗教か詐欺か』『創価学会インタナショナルの実像』(共にリム出版)など著書多数。

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