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2003年7月1日号
特集/「言論出版妨害事件」を再検証する

【インタビュー】
妨害された側の出版社代表が語る
言論出版妨害は歴史的事実  歴史改竄は許されない


遠藤留治(日新報道代表取締役)

 昭和四十四年末から四十五年にかけて一大社会問題となった創価学会・公明党による言論出版妨害事件。そのターゲットになったのは、気鋭の政治評論家として売り出していた藤原弘達明治大学教授が執筆した『創価学会を斬る』(日新報道刊)だった。
  現在、(株)日新報道の代表取締役を務める遠藤留治氏は、当時、この『創価学会を斬る』の出版・編集担当として、創価学会・公明党による著者の藤原氏、そして日新報道に対する直接的な圧力や妨害、さらには出版取次会社や書店に対する圧力の事実を実体験した一人。
  今回、その遠藤氏に、当時、つぶさに体験した創価学会・公明党による言論出版妨害の事実を、生き証人として語ってもらった。

――言論出版妨害事件から早くも三十四年の月日が流れ、すでに世間の多くの人の記憶から薄れてしまっていること、また、活動の主体である青年部員などは、当時の実状を全く知らないことを背景に、いま創価学会は言論出版妨害事件について、自らは加害者ではなく被害者であるとか、あの事件は、創価学会・公明党の勢力伸張を阻もうとした政治的謀略だなどと主張しています。

 遠藤 とんでもないことです。創価学会・公明党が自分たちにとって都合の悪い批判的言論を封殺するために、出版を妨害したことは歴史的事実です。時間的経過にともなう事件の風化を利用して、歴史の偽造を図ろうなどとは、許されることではありません。
 そうしたウソを平気でつき、歴史まで改竄しようとする傲慢でファッショ的な姿勢こそが、『創価学会を斬る』でも問題とされた、創価学会の悪しき体質なのです。

 ――では、具体的にお聞きしますが、そもそも『創価学会を斬る』を出版された動機とはどういったものだったのでしょうか。

 遠藤 昭和四十四年十月末に発刊された藤原弘達氏の『創価学会を斬る』は、もともと「この日本をどうする」という藤原弘達氏の警世キャンペーンシリーズの第二巻として企画されたものでした。第一巻は『日本教育改造法案』で、教育ならびに教育界の問題を取り扱ったものだったのです。藤原弘達氏が、創価学会・公明党を取り上げた理由は、『創価学会を斬る』の文中にある次のような問題意識に基づいています。

 「創価学会・公明党が目下ねらっているものは、自民党との連立政権ではないのか」
 「もし自由民主党が過半数の議席を失なうというようなことになった場合、公明党に手をさしのべてこれとの連立によって圧倒的多数の政権を構成するならば、そのときは、日本の保守独裁体制が明らかにファシズムへのワンステップを踏み出すときではないかと思う」
 それだけに出版の企画・検討の段階で藤原弘達氏は、公明党と自民党が連立政権を組めば、ファッショ政治になると、何度も何度も言われていました。

 ――『創価学会を斬る』の中にある次のような主張ですね。
 「ちょうどナチス・ヒトラーが出た時の形と非常によく似て、自民党という政党の中にある右翼ファシズム的要素、公明党の中における宗教的ファナティックな要素、この両者の間に奇妙な癒着関係ができ、保守独裁体制を安定化する機能を果たしながら、同時にこれを強力にファッショ的傾向にもっていく起爆剤的役割として働く可能性も非常に多くもっている」

 遠藤 その通りです。現在、日本の政治体制は、自・公・保連立政権となってますが、日本の政治は国政も地方も創価学会・公明党に蹂躙されているといっても過言ではありません。すでに三十年以上も前に、今日の事態、危機を予測し、警鐘を鳴らした藤原弘達氏の炯眼にあらためて驚くばかりです。


 ――『創価学会を斬る』には、事実関係等に些末な間違いはあるものの、創価学会の本質を衝き、その危険な体質を炙り出していただけに、創価学会・公明党はエキセントリックに反応、熾烈な圧力をかけたのだと思います。具体的な圧力は、まず、抗議電話から始まったということですが。

 遠藤 先ほど申し上げた「この日本をどうするシリーズ」第一巻の『日本教育改造法案』を昭和四十四年八月に出版した際、国鉄(当時)、私鉄の各線に中吊り広告を出したんですが、その広告の左端に次作として『創価学会を斬る』の出版予告を載せたんです。抗議電話が始まったのは、この出版予告を出した直後からでした。
 会社にいると電話がジャンジャンかかってくる。それは「日本教育改造法案」についての問い合わせ電話ではなく、ほとんどすべてが『創価学会を斬る』についてのものでした。「いったいどういう内容なんだ」「いつ出版するんだ」という探りの電話から、「出版をやめろ」とか、「ぶっ殺すぞ」「地獄に堕ちるぞ」という脅迫電話まで、ひっきりなしでした。もちろん名前は名乗りません。一方的に怒鳴りまくった上で電話を切るというパターンが延々と続きました。
 また、この抗議電話とともに、舞い込んだのが抗議の葉書や手紙でした。段ボール何箱分になったでしょうか。とにかくもの凄い数でした。
 当時、すでに「鶴タブー」と言われていた創価学会による批判的な記事に対する圧力の噂は、広くマスコミ界、言論界に流れていましたので、創価学会について批判的な本を出版すると決めた時から、圧力はあるものと思っていましたが、激しい抗議電話や手紙の数に、これは容易ならざる事態だと改めて痛感させられました。

 ――当然、日新報道ばかりではなく、著者である藤原弘達氏の所にも、抗議電話や抗議の葉書、手紙が送られてきたわけですね。

 遠藤 それはひどいものでした。やはり段ボール箱で何箱にものぼったんじゃないでしょうか。電話での脅迫もひどいものでしたので、警察がそれとなく藤原弘達氏のお子さんなど家族の警備をしたほどでした。

 ですから藤原弘達氏は身の安全を図るため、都内のホテルを転々として『創価学会を斬る』の執筆を続け、私たちも移動しながら編集作業を続ける有り様でした。
 なお、この抗議電話や葉書は出版後もますますエスカレートし、内容もひどいものでした。

 ――そうした動きと並行して、創価学会・公明党の幹部である藤原行正東京都議が、池田大作会長の指示を受けて、藤原弘達氏と日新報道に出版の中止を申し入れてきた? 遠藤 八月三十一日に藤原行正都議が、藤原弘達氏の自宅に訪ねて来て、出版の取りやめを求めてきたんです。もちろん藤原弘達氏は拒否しました。また、同時に藤原行正都議は、私どもの会社に対しても面談を申し入れて来ました。もとより私どもとしても圧力があることは予想していましたし、断固、創価学会の圧力を跳ね返して『創価学会を斬る』を世に出そうと、藤原弘達氏とも固く約束していましたので、藤原行正都議の申し入れを断りました。
 その後、藤原行正都議は、秋谷栄之助氏(現会長)を伴い、再び、藤原弘達氏宅を訪ねてきて、再度、出版の中止を申し入れたのです。もちろん藤原弘達氏はその申し入れを拒否しましたが、創価学会・公明党による言論出版妨害の事実が、後々、言った、言わないで誤魔化されるようなことになっては大変だという思いから、この時の会談の模様をテープに録音しておいたのです。これが、後に言論出版妨害の動かぬ証拠になりました。
 ――結局、電話や手紙による脅しも、藤原行正都議、秋谷氏による出版の取りやめの圧力も不調に終わった結果、創価学会・公明党というより、池田会長が出版の中止を自民党の田中角栄幹事長に依頼したため、田中幹事長の登場ということになったわけです。

 遠藤 藤原弘達氏は田中幹事長と面識がありましたから、田中氏の顔を立てる意味で、二度ほど赤坂の料亭で会ったのです。その際、藤原弘達氏と田中幹事長の面談の様子を、隣の部屋で池田大作会長、竹入義勝公明党委員長が聞いていたというのは有名な事実です。
 結局、田中幹事長の仲介も不調に終わり、むしろ田中幹事長という与党の大物政治家までが出版に圧力をかけたことを、藤原弘達氏が明らかにしたことから、創価学会・公明党による言論出版妨害事件は、一大社会問題、一大政治問題へと発展していきました。

 ――田中氏に藤原弘達氏の懐柔を依頼する一方で、創価学会・公明党は、書籍流通の取次会社や書店に圧力をかけ、『創価学会を斬る』を世に出さないよう画策します。その結果、取次や書店に配本を拒否されたということですが。

 遠藤 ひどいものでした。日販、東販という大手書籍流通会社をはじめ、のきなみ拒否です。「取り扱えない」というので、「なぜだ」「どうして」と理由を聞くと、誤魔化していましたが、そっと創価学会の圧力であることを教えてくれる業者もありました。結局、書籍の配本契約を結んでいた十一社のうち、初版の配本を請け負ってくれたのは栗田書店一社だけという悲惨な状況でした。

 ――書店にも軒並み圧力がかかっていた?

 遠藤 潮の社員や「聖教新聞」の社員などが書店回りをして、「置くな」と圧力をかけていたんです。「『創価学会を斬る』を置くと、『人間革命』などの売れ筋の創価学会の本を引き上げるぞ」という脅しだったそうです。それでも中には、「これはいい本だ」といって置いてくれる気骨ある本屋さんもありました。

 ですから『創価学会を斬る』は四十四年の十月末に出版したものの、ほとんど流通には乗らず、書店にも置いてもらえないので、社員が現物を風呂敷に包んで書店回りをして、直談判で置いてもらえるように交渉し、やっとの思いで売って貰うという有り様でした。

 ――その後、藤原弘達氏が創価学会・公明党による言論出版妨害の事実を明らかにしたところ、国民世論の大きな反発を招き、事態は大きく変わっていくわけですが。

 遠藤 それでも最初は公明党の竹入義勝委員長や矢野絢也書記長が「事実無根」と否定するなど、強気でしたが、四十五年の国会でこの問題が取り上げられるようになってから、火がつきました。
 ただ、藤原弘達氏が創価学会・公明党による言論出版妨害の事実を明らかにする以前、私も「朝日新聞」や「読売新聞」など、全国紙の記者や編集幹部に会って、創価学会・公明党がこんなひどいことをしていると事実を説明しました。ところが、彼らはこの問題を全く扱おうとはせず、政治問題化してから初めて扱うようになったんです。このマスコミの怠慢には本当に失望し、怒りを憶えました。

 今日も、創価学会の莫大な広告費や「聖教新聞」の印刷費、購読部数、視聴率などの前に、新聞・テレビなどの巨大メディアは屈し、創価学会問題を積極的に報じようとしませんが、当時から彼らは、勇気とジャーナリズム精神を喪失していたと言わざるを得ません。

 ――今日、ただいまも創価学会は、自らにとって批判的な言論の抑圧に血道をあげています。当時から分かってはいたことですが、今回、「新・人間革命」で言論出版妨害の事実を否定し、言論出版妨害事件は、創価学会・公明党を貶めるための政治的謀略だったと主張している事実は、結局、昭和四十五年五月三日に池田会長が行った「謝罪」が、世間を欺くための芝居にすぎなかったということを自ら認めたということです。
 あらためて創価学会の反省なき無残な体質が明らかになったといえますが、こうした創価学会の主張を聞いて、どんな感想をもたれますか。

 遠藤 本質的には、当時となにも変わっていないということです。
 先ほど、藤原弘達氏が『創価学会を斬る』の中で鳴らしていた警鐘を紹介しましたが、言論の自由を侵害した創価学会・公明党が政権与党の一角を占めている事実に、愕然とせざるを得ません。
 創価学会・公明党が基本的人権である言論の自由を侵害したという歴史的事実を、きちんと後世に伝え、藤原弘達氏が叫んだ「日本をファシズム国家にしてはいけない」との警鐘を乱打する必要を、あらためて痛感します。

遠藤 留治(えんどう・とめじ)一九三七年福島県生まれ。数社の出版社の編集・企画・営業を経て、現在、株式会社日新報道の代表取締役。携わった出版点数は千六百点余。そのうち、二十数点は創価学会関係の批判書籍。

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